*
船≠フ一室には2m近い巨躯の男と、それに比べ頭二つ分は小さい少女がいた。
少女はソファに背を預け、男性は窓辺に立ち眼下に広がる雲海を見下ろしている。
「そうか……、ヤクモが目覚めたか……」
「まだ半覚醒の状態だけど、ね」
「封印が解けるのは時間の問題だ。……二十年、待ちわびた……」
「始まるのね。わたし達の戦争が」
unlimited
*
「……答えろ。貴様、どこのアダプターだ」
林飯綱は冷たい瞳で俺を見下ろしている。槍の先端は、倒れた俺に向けられたまま。
「アダ……プター?」
殺されるという恐怖など感じなかった。恐らくはそんなもの超越していたのだろう。俺は意味も分からぬ言葉をオウム返しの要領で呆然と口にすることしか出来なかった。
「いつっ……」
その時不意に、胸に鋭い痛みが走った。
胸に左手をやる。
……べちゃりとした厭な感触。
目の前にかざしてみると、果たして掌は真紅に染まり、着ていたワイシャツも血みどろだった。
……そうだ、俺は男の槍に刺されて――、信じられないことだが、一度殺された。
しかし胸に穿たれていたはずの穴は、もうほとんど塞がっていた。
何がどうなっている?
まだ夢を見ていると言われた方が、余程納得できた。だが頭の中はかつてない程鮮明だ。これを夢だと判断出来るのはとんだお間抜けだろう。
「ちっ……、無自覚のアダプターか。面倒だな……」
林は舌打ちをして、再度俺の眼前に刃を向ける。そして。
「――選べ。ここで死ぬか、大人しく私と来るか」
俺にそう問うた。
「おれ、は……」
選択の余地など、どこにもありはしなかった。彼女だってそんなことは百も承知の上での質問だろう。
林は懐から携帯を取り出しどこかへ電話を始めた。
「……飯綱です。夜分にすみません。……えぇ、至急に。お願いします」
短く会話を終えると、林は再び俺の方に向き直る。
「神倉八雲。貴様の身柄、聖徒会が預かる。逆らえば……殺す」
夏だというのに吹く夜風は冷たい。
いつしか、鈴虫の鳴き声は聞こえなくなっていた。
*
一時間後。時計は一時を指していた。
俺は学園の一つの教室へ連れてこられていた。
聖徒会室――。
夜中だというのに、俺を除いて八人の男女が勢揃いしていた。その中に……。
(春姫……)
悲しげに俯いて、唇を噛み締める春姫の姿があった。
俺はまるで異端審問にでもかけられるように、生徒達に取り囲まれていた。春姫と、俺をここに連れてきた張本人であるところの林以外は知らない顔ぶれだ。
「さて……」
俺の正面――書類が左右に堆く積まれた大きなデスクに腰掛けた女生徒が口を開いた。
「なんにせよ、まずは自己紹介が必要ですね。はじめまして、神倉先生。私が清命学園聖徒会会長、六期生の西園寺阿須波です。以後お見知りおきを」
女生徒――西園寺はたおやかに笑って自己紹介した。
「同じく六期生、副会長の北原鈿女です。よろしくお願いしますね」
今度は西園寺の隣に立った眼鏡をかけた女子が言った。
「会長、そんな悠長に自己紹介などしていては……」と林。
「まぁ飯綱。焦る気持ちは分かるけど少し落ち着きなさい。目上の方に自己紹介もなしでは失礼でしょう?」
しかし西園寺はそんな林の言い分をやんわりと受け流した。大人な感じのその様子が妙に板に付いている。
見るからに気の短そうな林と、見るからに穏和そうな西園寺。
聖徒会ではこの程度は日常茶飯事なのかもしれない。
「あとは私が紹介しましょう。右手から順に、会計の東菊理。書記の南条照也。左手に、それぞれ 執行部員の風間春姫、林飯綱、火野彦根、山里児屋です。以上八名が、当聖徒会役員になります」
西園寺が説明していく順に会釈をするなり微笑を浮かべるなりする役員達。約二名――さっきから俯きっぱなしの春姫と、『今更挨拶する必要もないだろう』と言わんばかりに目を閉じてそっぽを向いている林を除いて。
「さて……」
紹介が終わると、西園寺は笑顔から一変、険しい顔つきになって切り出した。
「率直にお訊ねします。神倉八雲先生、貴方はあんな時間、あんな場所で何をしていたのですか?」
……本題に入ったのか。
だがこっちにだって訊きたいことはある。
「それはこっちの台詞だ。君達こそあんなところで何を――」
「質問は受け付けません」
俺が言い終わる前に、西園寺はぴしゃりと言い放った。
……その雰囲気は先程まで彼女が纏っていた空気ではなかった。
林に刃を向けられていた時に感じた感覚と同じ――敵意にも似た感情だった。
「神倉先生。今の貴方に自由な発言権はありません。そして貴方には我々の質問に嘘偽りなく答える義務があります」
裁判官の如く有無を言わさぬ調子で言い切る西園寺。
「…………」
その、およそ十八歳とは思えない迫力に俺は言葉を失った。
「私が訊きたいのは神倉先生があの時間にあの場所にいた理由、あの場所で目撃したもの。そして――」
そう言って西園寺は視線を逸らせて。
「……先生の持つそれ≠ェなんなのか、ということ」
……俺の右手に握られている白刃の長剣を示した。
先程、林に叩き起こされた時から変わらず握っている出自不明の長剣。
柄30cm、刀身は90cmといったところだろうか。重さは3kg程度、狭い諸刃の典型的な西洋風の両手剣だった。
竹刀や木刀とは違う、明らかに人を殺すために造られたモノ。
それが、俺の手にしっかりと握られていた。
林の持っていた槍はいつの間にかなくなっていた。
どこかにしまったのだろうか。いや、あんな2m近い長物をそんな咄嗟に隠せるはずがない……。
「さぁ、神倉先生」
発言を促される。その言葉にはまるで言わなければ最後、身の安全は保障しないとでもいうように強い言霊が籠められていた。
嘘は通用するまい。……もっとも、この場を切り抜けることが出来るような気の利いた嘘が思い浮かばなかったのも厳然たる事実ではあるのだが。
……言わないと、いけないのか――。
「……信じてもらえるかどうか分からないけど、俺、夢遊病持ちでさ。気が付いたら学園にいたんだ。それで、物音が聞こえてきて……」
「……そうなのですか」
「信じるのか?」
「会長! そんな戯言を信じるのですか?」
俺と林が同時に問う。あっさり信じてもらえたことに俺も驚いたが、林の声にはやや怒気も含まれている。
「八雲くん……」
ここにきてようやく春姫が口を開いた。驚きの声。無理もない、この病気については俺の両親しか知らないのだ。
「飯綱。頭から人を疑うのは貴女の悪い癖よ。私が先生の立場でこの場をしのぐためなら、もっと信憑性のある嘘を吐くわ。それに、嘘を吐いているかどうかはその人の目をよく見れば分かる。いつも言っていることでしょう?」
「……はい」
「先生。先生が夢遊病だということは信じます。では次の問いに移ります。中庭で、貴方は、何を、見ましたか?」
一瞬淑やかな表情に戻った西園寺だったが、次の問いに移ると同時に再び厳しい、相手を威圧するような視線を向けてくる。そして一言一言、確認するようゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺は……、中庭で……」
その先は言葉にならない。自分自身、まだあれが夢なのではないかという感が拭い切れないのだ。
だが同時に、心のどこかでそれを否定している自分がいる。
それは嘘だ、と。
確かに右手に握られている剣と、血にまみれた服を見れば明らかなことだ。心の底では……俺は多分もう自覚している。自分がのっぴきならない状況に立たされているということを。
と。
「――殺し合いを目撃した。違いますか?」
黙るしかない俺の心中を誰かが代弁した。
「照也……」
その男子生徒は先程西園寺が紹介した、書記の南条照也だった。
「会長、もういいでしょう? 先生は既に常態を失いつつある。これ以上詰問したところで時間の浪費だ」
穏やかで優しい笑みを湛えて南条は諭すように言った。
「お気持ちは察しますが、どうかこの場は穏便に」
「照也……。そうね、私も少し性急過ぎました。非礼をお詫びします神倉先生」
「あ、いや……」
突然頭を下げられてこっちが面食らってしまった。こっちはまだ訳も分かっていないのだ。謝られても困る。
「では最後に問います」
そう言うと彼女はすっと、俺を睥睨するかのように目を細めると。
「先生の持つその剣=Bそれに見覚えはありますか?」
と、そう尋ねた。
そんなの考えるまでもない。こんなもの見たことも、ましてや持ったことも――
――何だか頭痛がした
「……いや、ない」
気圧されるままにそう答えた。
西園寺は「そうですか」と歓喜も驚愕も感じられない無感情に呟いて俯くと、しばし黙った。
沈黙の帳に包まれる。
少しして――一分くらい経っただろうか、彼女は椅子から立ち上がって言った。
「……分かりました。ではこれにて質疑を終了します。神倉先生、お付き合い下さり感謝します。さて……」
西園寺はつかつかと足音を響かせて俺の前まで来ると。
「貴方の持つその剣、私達聖徒会が預かります。異存はありますか?」
「……とんでもない。それはこちらとしても望むところだ」
こんな物騒な物、一刻も早く手放したいのが本音だった。黙って剣を差し出す。彼女も黙って受け取った。
「ではこれにて聖徒会臨時会議を閉会いたします。各々方、夜半にご苦労様でした」
副会長の北原鈿女がそう締めた。確かに、こんな時間によく集まったものだ。真っ先に部屋を出て行った林を皮切りに、一言も言葉を発しなかった東、火野、山里の三人も一礼して退室していった。
「神倉先生もお疲れ様でした。この剣は聖徒会が責任を持って管理させて頂きます」
北原が話しかける。
――『聖徒会が責任を持って』。
この聖徒会は一体何を知っているんだ?
そんな言葉が喉元まで出かかったが、先程の有無を言わさぬ言葉を思い出して、結局訊くことが出来なかった。
「帰りの道中、どうぞお気を付けて」
そう言って気遣ってくれる北原。
「……確かに、こんな格好だと警察に見つかった時違いなく補導されるな……」
着替えもなかったので、俺は血まみれのシャツを着続けていたのだ。血がべっとりと肌に張り付いて不快極まりない。
「それもありますが……。……まぁ、春姫がついているから問題はないでしょう」
そうだ、春姫……。
春姫は先程から変わらない場所で立ち尽くしているだけだ。俺はそばまで寄っていった。
「春姫……、大丈夫か?」
「…………」
返事はない。ただ俯いたまま、いつもの快活な彼女からはおよそ想像もつかない程暗い空気を身に纏っていた。
俺は何を言うべきかも分からず――。
「うちに……、帰ろう……?」
そう言うのが精一杯だった。
春姫は聞こえているのかいないのか分からない様子でしばらく呆然としていたが。
「……はい」
ようやく、そう答えてくれたのだった。
深夜の寝静まった帰り道を、二人無言で歩く。
幸い、職質に遭うことはなかった。
*
船≠フ室内で、ナヅナは窓の外を眺める男の背後に跪いていた。
「……面目次第もございません。相手がアダプターだったことに気付けなかったどころか、仕留め損ねるなど……」
男の背中からは喜怒哀楽、どの感情も読み取れなかった。
無言の威圧に気が気でないナヅナ。感情を読み取れない背中、それが何よりの畏怖の対象だったのだ。
男はナヅナに向き直り、そちらへ歩み寄ってくる。それを気配で察知してびくっと身体を震わせた。
しかし男は跪く彼の肩に優しく手を置き。
「構わん。お前はよくやってくれた。そう自分を責めるものではないさ。お前は聊か悲観的に物事を捉える悪癖がある。強いて言うなら、そちらの方があまりよろしくないな」
そうナヅナを労った。
「私はお前の力を大いに買っているのだ。この失敗を糧に、今後も私のために力を行使してくれたまえ」
「……この身には勿体無いお言葉です。感謝致します、ニニギ様」
男――ニニギと呼ばれた男は立ち上がり、回転椅子に座り足を組んだ。
「退がれナヅナ。今日はゆっくりと身体を休めると良い」
「……はっ」
ゆっくりと立ち上がり、部屋を後にするナヅナ。
…………。
「クククク……」
怪しげに笑い出すニニギ。ここにきて初めて感情というものを表に出した。それは、初めてサーカスのピエロを見た子供さながらに愉快げな笑みだった。
「……悪趣味ね」
それを見て、ソファに腰掛け一部始終を静観していた少女が呆れた口調で呟いた。
「ククク、そう言うなサクヤ。奴の道化振りは、当事者にしてみればなかなかに見物だぞ? 所詮は人間……せいぜい我々の役に立ってもらうさ」
そう言うとニニギは椅子を回転させ、再び窓の外を見やった。
「……そう、我ら九つの世界≠フために、な」
部屋を後にしたナヅナは苛立たしげに大股で廊下を歩いていた。
――ありえない。
彼はそう思っていた。
自分のノスフェラトゥ≠、しかも心臓に串刺しにされて存命しているなど、一体どんな奇跡が起きたのか。しかもアダプトの気配など皆無だったのだ、自動発動型だとしても納得するに無理がある――。
「……よーぅ、ストレイ。今回は随分な失態を働いたようじゃねぇか」
背後からの、大型動物の唸りにも似た声に足を止めるナヅナ。声の主を察するに、良い気分ではないが無視するわけにもいかなかった。
振り返る。その先には二人の巨漢がいやらしげににやけながら立っていた。うち一人、声をかけた方はニニギに比べても10cmばかり背が高くレスラーみたいながっちりした体格をしている。もう一人も190cm程度の長身に程よく肉がついた、頭蓋骨を模ったような面妖な仮面をかぶった男だった。こちらは仮面をかぶっている故に実際に笑っているかどうかの表情は読み取れないが、雰囲気的に人をコケにしている節がある。
「チッ……」
二人の姿を視認すると、舌打ちをして踵を返そうとするナヅナ。
「待ちなヨ。どうヤラ人間一人殺しきるコトも出来なかっタようじゃないカ?」
「……ッ」
「やっぱテメェみたいな半人前に任せたのがそもそもの間違いだったんだな。ニニギに談判して、今度は俺様が直々に出向いて皆殺しにしてやるよ」
「……ウガヤが撤収指示を出さなければ確実に殺れたんだよ。今度こそ絶対に仕留めてやる。ホスセリ、ホオリ、アンタらの出る幕はないぜ」
「それだけの大口を叩くからにハ、相応の自信があるんだろうネ?」
「当然だ。今度こそそいつをアンタらの前に連れてきてやるよ。……ミイラみたいに干からびた死体に変えてな」
捨て台詞のように言って、今度こそナヅナは立ち去っていった。
…………。
「キキキ……、相変わらず詰めが甘イ。だからキミははぐれ者≠ネんだヨ」
「けっ。やっぱ駄目だな、人間ってやつは」
六月二十三日(火)
*
「…………」
目覚めは最悪だった。目の前にあるのは昨日までと同じ天井だというのに。こんな精神状態でも眠れるんだな、と思うと少し笑えた。
俺はしばし寝転がったままでいた。
起きたら全部夢でした、ってオチならどんなに良かったか。しかしながら、そんなささやかな願望はゴミ箱に乱雑に突っ込まれた血塗れのシャツを見る度に打ち砕かれる。傍から見れば、そんなことを性懲りもなく十秒に一度も確認している俺の、なんと滑稽なことか。
昨晩遅くに帰ってきた時、春日さんはまだ起きていた。赤く変わり果てた俺を見ても何も語らず、ただ「シャワー、浴びてらっしゃい」と言うだけだった。
……驚いた様子はなかった。
春日さんは何を知っているのだろう。聖徒会の顧問という以上、西園寺らが知っている情報――最低でもその一端は把握しているに違いない。
春姫、春日さん、林や西園寺。
彼女達は何を知っているのだろうか?
俺だけが何も知らないでいる。そういえばソクラテスが問答法とかいう思考形式を提唱していたな、などと、人生を生き抜く上でろくに役にも立たない知識を思い出す。
……生き抜く、か。
俺が今こうして生きているのは、呼吸をしているのは、心臓が動いているのは自明の理だ。しかし昨晩確かに俺は左胸を貫かれ、その傷は間違いなく死に至るものだったはずだ。
この矛盾、支離滅裂、自家撞着。
そして、違和感――。
まるで自分の身体が自分のものでないような。
あの剣≠手にした時から、妙に身体の調子がおかしい。
病気の発作が常に起きているような感じだ。だが普段の発作と違うのは身体の支配権は俺にあるという点。試しに二、三度手を握ったり開いたりしてみる。当然思った通りに動く。何も問題はない。
時計を確認すると、そろそろ通勤の準備を始めないといけない時間だった。
……こんな状況だが、就職二日目から休みはまずい。俺は大学時代から愛着しているカジュアルスーツに袖を通して通勤バッグを手にして階下に下りた。
昨日の朝と変わらず、台所には春日さんが立っていた。
「あら、おはようございます八雲さん」
俺を視界に捉えると、いつもと変わらず優しく挨拶をした。
――まるで昨夜のことなど記憶にないかのように。
「……おはようございます」
「朝ご飯、食べますか?」
「いえ、食欲ないので……。コーヒーだけ頂きます」
ダイニングテーブルに座って待つ。ほどなくして、春日さんが俺のマグカップに熱々のブラックを注いで持ってきてくれた。
ずずっと音を立てて一口含む。ドリップで挽かれた濃い目のカフェインが程好く胃を刺激し、次に脳を刺激してくれる。
うむ、やはり朝はブラックコーヒーに限る。霧がかかっていた頭が晴れ渡るような気分になる。
「大丈夫ですからね?」
「…………え?」
そんなことを考えていたところに、あんまりにも唐突に春日さんが話しかけるもんだから反応が遅れた。一瞬何を言ったのか――そもそもそれが俺に向けられての言葉なのかどうかさえも理解出来なかった。
「八雲さんは、そのままで大丈夫ですからね?」
テーブルの向かいに座って頬杖をついてニコニコと笑う春日さんがそう繰り返した。
「大丈夫ですよ。何も心配は、ありません」
「…………」
ありません、の部分を少し強調した風に聞こえたのは俺の気のせいだろうか……。
「……ごちそうさまでした」
コーヒーを最後の一滴まで飲み干して、カップをシンクで軽く水洗いする。
「それじゃ俺、学園行きますから……」
「はい、いってらっしゃい。頑張って下さいね?」
玄関先まで見送ってくれる春日さん。手を振りながら。俺も軽く手を振って、好青年を演じてみせて出かけた。
…………。
さっきの仕草、頬杖をついて笑う仕草――。
あれは春日さんの癖だ。昔から直ってない癖。
五年以上昔のことになる。俺がまだこの町で春姫達と暮らしていた頃のことだ。俺は春姫にこっそりあの仕草について教えてもらった。
春日さんのあの癖――。
その時、春姫は確かこう言っていた。
『あれは、なにか無理をしている時にする癖なんですよ?』
*
朝の職員会議。そこに副学園長の春日さんは姿を現さなかった。
しかしそれはそう珍しいことでもないらしい。今朝のこととは関係ないだろう。
というわけで、今日は代わりに教務主任の相沢先生が代弁した。相沢先生は四十代後半くらいの女の先生で、俺と同じく英語を受け持っている。
……そういえば。
「この学園の上層部って女性が多いですね?」
隣に座っている国語科担当の吉川先生に小声で気になったことを尋ねた。吉川先生は白髪が目立ち始めた定年間近のベテラン教師だ。厳しく教鞭を振るうことで有名らしいが、にもかかわらず生徒からの評判はいい。
「ん? あぁ……そうですね。言われてみれば確かにそうですなぁ」
周囲を見回してみても、女性教員が特に多いというわけではない。男女比率が4:6といったところか。
「神倉先生は知らないでしょうが……、学園長も女性なんですよ」
「へぇ?」
「今はドイツの姉妹校に赴任しているそうですが、とても若くて美人な方だよ。清野心さんといってね、私があと三十年若ければプロポーズしているところですな」
冗談めかしてくつくつと笑う吉川先生。
「ドイツに行ってるってことは副学園長から聞いて……清野?」
そういえば一昨日会った女生徒も清野って苗字じゃなかったか?
「あの、もしかして清野って……」
「ん? あぁ、そういえば確かに一期生にいますな、清野命くんは。学園長の娘さんだそうですよ。あまり学園に出てこないけしからん生徒で有名なんですが音楽の特待生、まして学園長の娘ということで誰も強くは言えんのですわ」
『……連絡事項は以上です。それでは皆さん、今日も一日頑張りましょう』
そんな話をしているうちに、職員会議は終わった。
清命学園の校舎は逆向きの『へ』の字型になっている。
正門に向かって右手を第一校舎、左を第二校舎と呼び、校舎同士は渡り廊下で繋がっている。それぞれ五階建てで、一階が生徒用と教員用それぞれの通学口、更に学食。第一校舎の二階に六期生、四階に五期生、五階に四期生の教室。第二校舎にも同様に下から三、二、一期生の教室があり、三階には職員室や聖徒会室他、特殊教室が存在するという具合だ。俺はまだ行ったことがないが、屋上は基本的に開放されており、昼休みや放課後は昼食を摂る生徒や授業前に一服する教員で賑わうらしい。校舎の向こうには更にグラウンド、体育館、水泳用温水プール、部室棟が建っている。
説明が長くなったが、俺は朝のホームルームに向かうために階段を上っているところだった。予鈴が鳴ったので、当然もう生徒の姿はない。
三階から四階へ。そして四階から五階へ続く踊り場に着いた時……。
ふと、頭上から人の気配を感じた。
見上げると。
そこには、銀色に輝く綺麗な髪をした少女が立っていた。白磁の肌。それとコントラストを描くように、左手には肘まで黒い手袋をしている。
背後の窓ガラスから差し込む朝日が後光のよう。教会のステンドグラスに描かれた聖母マリアもかくやという程の美しさ――。
俺はこの世のものとは思えない光景に息を呑んだ。
少女はにっこりと笑いかけて。
「おはようございます、神倉先生」
ありふれた朝の挨拶をした。
……何を見惚れているんだ俺は。相手は十二歳の女の子だぞ。
「あ、あぁ。おはよう、清野」
少女――清野命はトン、トンと足音を立てつつ階段を弾むように下りてくる。俺の目の前にまで来ると、再びにっこりと笑った。
「私の名前、知っててくれたんですね」
「副学園長に聞いたんだ。清野命……で、いいんだよな?」
清野は目を細めて「はい」と答えた。
「……って、清野? 予鈴鳴ったの聞こえなかったのか? お前の教室は第二校舎だろ。急がないと遅刻するぞ」
そこまで言って、先程吉川先生から聞いたことを思い出した。
「そういえばお前、授業にろくに出てないらしいじゃないか。駄目だぞ、いくら特待生っていっても学生の本分は勉強なんだからな」
軽く咎めておく。
「あはは、バレてましたか、そうですね。……うん、言うことが先生らしくなってきたじゃないですか」
「こらこら、大人をからかうもんじゃないぞ」
こういう小生意気なところは歳相応の女の子だ。ちょっと安心する。
「じゃあ……、私行きますね。ご機嫌よう、神倉先生」
そう言って銀髪を揺らしながら俺の横を通り過ぎる清野。
その刹那。
「――血の匂い、まだ残ってますよ」
そう言った。
「ッ!?」
反射的に振り返る。しかし清野はさっき同様、スキップをしながら階段を下りていき、振り向くことはなかった……。
「なん……だと……?」
手に持った名簿や筆記用具を落とす。
俺はその言葉の意味を理解出来ず、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。
*
「The Earth’s species are dying out at an alarming rate, up to 1,000 times faster than their natural rate of extinction. Some scientists estimated that as many as 137 species disappear from the Earth each day, which adds up to 50,000 species disappearing every year.」
「よし、そこまで。じゃあ続きを……加藤、読んでみろ」
「はい。Tropical rainforests contain at least half of the Earth’s species……」
英文の朗読が続く。進学校なだけあって、生徒達はみな真面目なものだ。
三時限目、6−1の英語の授業。何事もなかったかのように進む日常。ごくありふれた、穏やかで平凡な。
昨日までと何も変わらない。なのに、こんなにも違って見える。
何かが狂ってしまった。俺自身か、俺以外の全てか。
……あるいは、初めから何も狂ってなどいなかったのか。それともあるいは……。
初めから、何もかも狂っていたのか――。
聖徒会、アダプター。訳が分からない単語が頭の中で羅列を成す。
そして、清野命――。
『――血の匂い、まだ残ってますよ』
彼女は一体、何者なんだ? 警察犬じゃあるまいし、まさか本当に血の残り香を嗅ぎ取ったわけではあるまい。ただの生徒とは考えにくい……。
「……先生? 読み終わりましたけど……」
「ん……? あぁすまんすまん。それじゃあ次は、えー……北原。……北原?」
名簿に目を通してみて気が付く。出席番号十番のところに「北原鈿女」という名前があった。
鈿女、なんて名前の子はそうそういない。案の定、聖徒会副会長のあの北原だった。
「どうかしましたか、先生」
北原が問う。教壇に立つ俺を真っ直ぐに見据えて。眼鏡越しのその視線は何か訴えかけているようだった。
『平静を装え』――そう言っている風に見えた。
「……いや、なんでもない。じゃあ北原、七行目から読んでみてくれ」
「はい。The unbelievable diversity of the rainforests……」
授業はその後も滞りなく進んだ。
「神倉先生、よろしいですか」
教室を出たところで後ろから話しかけられる。誰かと思って振り返れば北原だった。
「どうした? 何か授業で分からないところでもあったか」
「いえ、そういうわけでは……」
ちょっと……、と言って俺を廊下の隅へと誘う。それで、なんとなく話の内容が理解出来た。
彼女は小声で、
「……先の一件、誰にも話していないでしょうね?」
と尋ねた。
昨日見た時からお堅いイメージの北原だが、今はより一層それが強みを増している。視線もきつい。質問というより、念を押す感じだ。
「……当たり前だろ。あんなこと第三者に話したら、それこそ妄想癖のある変人だと思われる」
「そうですか、なら良いのですが。今後もこのことはくれぐれも内密にお願いします。ひいては、それが先生のためにもなりますから」
眼鏡をかけ直して俺から一歩離れる。よく見れば、彼女の目は左右で色が違う。右目が黒なのに対し左目は淡いコバルトブルーのいわゆるオッドアイだ。
「事情は……聞かせてくれないんだよな?」
「世の中には知らない方が良いこともあります。これがそのことだと、お分かりになって頂けますか?」
「…………」
「……すみません、お時間をとらせました。では――」
と言って立ち去ろうとした時、廊下の向こうが俄かに騒がしくなった。
「なんだろう?」
「行ってみましょう」
俺達は駆け出した。
騒ぎの周りには人垣が出来ていた。その中心では怒号や罵詈雑言が飛び交っている。どうやら複数人による乱闘のようだ。
「サッカー部とラグビー部の人達ですね。日頃から仲が悪くて。たまにあるんです。聖徒会としては、いい迷惑ですが」
進学校とはいえ、どこにでも血の気の多い連中はいるってことか……。
「はぁ……しょうがねぇな」
見てしまった以上、教師として止めないわけにもいかない。喧嘩は得意な方じゃないんだけどな……。
「どうするつもりですか?」
「ほっとくわけにもいかないだろ。止めるんだよ」
人込みの中に割って入っていこうとした俺を。
「必要ないと思いますよ」
北原が腕を掴んで止めていた。
「え?」
とその時――。
「こらーーー!!!」
大勢の怒号にも勝る程の大声が、周囲を貫いた。皆一様に声のした方を見る。
声の主はどこからそんな大きな声が出たのか、決して背が大きいとは言えない男子生徒(エンブレムからして五期生だと分かる)だった。その背後には隠れるようにして女子(こちらは三期生だ)が立っている。二人とも、『執行部員』と書かれた腕章をつけていた。
「聖徒会だ! 騒ぎはやめろ!!」
騒ぎの中心で「やべ、風林火山だ!」「どけ! おら邪魔だ!」などと言っているのが聞こえた。蜘蛛の子を散らすように逃げていくサッカー部とラグビー部の面々。中には足を負傷でもしたのか、びっこをひく生徒も見える。辺りに詰め掛けていた野次馬も「なんだ、つまんね」等々好き勝手口々に呟いて、周囲はいつも通りの喧騒に戻っていった。
「ほら、ね?」
北原が俺の肩をポンと叩き、二人の執行部員の方へ歩み寄った。
「ご苦労様。彦根、児屋」
「あ、副会長。お疲れ様っす」
「うぅ〜、私はまた彦根くんの後ろに立ってるだけでしたぁ〜……」
途端に覇気がなくなる二人。その二人にも、俺は見覚えがあった。ゆうべ、聖徒会室にいた生徒達だ。確か名前は……。
「火野と山里……だったか?」
俺も三人の元へ行く。
「あ、先生。ちっす」
「神倉センセーでしたかぁ。こんにちはぁ」
気だるげに挨拶する火野と、間延びした口調の山里。どうやら間違っていなかったらしい。
「改めて紹介しますね、神倉先生。風林火山執行部の火野彦根と山里児屋。大抵の揉め事は彼らに任せれば解決するので、先生方が出る幕もないんですよ」
「火野っす」
「山里児屋ですぅ」
「俺のことは改めて紹介するまでもない、よな。……ところで、風林火山ってなんだ?」
さっき騒いでた奴らも言ってたな、「風林火山だ!」とかなんとか。
「清命の聖徒会執行部の通称です。風間春姫、林飯綱、火・野彦根、山里児屋。この四人の苗字の頭文字を取って『風林火山執行部』と呼ばれるんですよ」
と説明してくれる北原。
「ま、あれすけどね? 一番年長のおれが先に抜けたらどうなるんだって話っすけどね? 『風林山』とか、イマイチ締まらない名前で呼ばれることになるんすかね? でもなんか『風林斬!』って名前の必殺技っぽくてちょっとカッコよくないすか? クー・フーリンみたいで」
「…………」
……ちょっと、いや、かなり変わった子だな。
因みに、クー・フーリンとはアイルランド辺りに伝わるケルト神話に出てくる英雄の名前だ。
「彦根、失礼でしょう」と北原に諌められると「さーせん」と頭を下げた。
林にしろこの火野にしろ、聖徒会には個性的なキャラが多いな。
と、ちょうど予鈴が鳴った。
「おっといけね、次の授業の用意しないといけないんだった。三人も遅刻しないよう教室戻れよ」
「はい」
「うい」
「はぁ〜い。さよならぁ、神倉センセー」
三者三様の返事を確認して、職員室へ向かった。
*
四時限目の授業を終えて職員室へ戻る途中。
「八雲くんっ」
聞き慣れた声に呼び止められた。
「……風間、学園でその呼び方はやめろって言っただろ」
言いつつ振り返ると、思った通り春姫が立っていた。しかしその声にも表情にもいつもの元気さはない。というか、昨日からろくに声も聞いていなかったのだ。朝のホームルームで返事を聞いたくらいだ。
「……どうした?」
努めて明るく振舞う。俺まで辛気臭い顔をしていたら余計に気が滅入ってしまう。
「あの……、身体の調子は、どうですか……?」
俯き加減で、上目遣いに訊いてくる春姫。あまりに心配そうに訊くもんだから、俺はつい強がって。
「もう全然。血湧き肉踊って今にも暴れ出しそうな気分だよ」
「そうですか……」
それでも春姫は俯いたままだ。
……ったく、そんなんじゃかえってこっちが心配するっつーの。
「一緒に昼飯食おうぜ。俺が奢るからさ」
「…………」
しばらく考えた後、僅かに笑って頷いてくれた。
「うわ、こりゃまた広いな……」
俺は唖然とするしかない。
学食は、同時にバレーボールの試合が二つ出来るんじゃないかってくらいに広かった。昨日は資料整理などで忙しくて、昼飯は購買部でアンパン(行くのが遅かったのでそれしか残ってなかった)を一つ買っただけで済ませたため、学食に足を運ぶのはこれが初めてだ。
「一応千人くらいは入れるように出来てますから。それでも、昼には大抵の席が埋まっちゃうんですけどね。午後にはカフェテリアとして開放もされますし」
「確かにすごい人込みだな。春姫、はぐれるなよ」
「……はいっ」
見回してみると、一際人だかりが出来ているのが二ヶ所ある。おそらく券売機とそれを料理と交換するカウンターだろう。
「それじゃあ、俺は料理を持ってくるから、春姫は席を――」
「あっれ〜、春ちゃん?」
確保しておいてくれ、と言おうとしたところで、後ろから脳天気な声が聞こえてきた。
「あ、菊理先輩」
「と、えーとえーと……」
俺の姿を視認するやいなや、なにやらしきりに唸り出す菊理と呼ばれた女生徒。どうやら何かを思い出そうとしているようだ。
「八雲くん、こちら聖徒会会計の東菊理さん。それで菊理先輩、この人は神倉八雲先生です」
「あー! そうそう、神倉先生だぁ」
ぽん、と手を打つ東。そういえば彼女とも昨日聖徒会室で会ったか。
「神倉八雲……神倉八雲……」
と、今度は俺の名前を連呼し始めた。
「神くん……違うな……、雲たん……これもイマイチ……」
「……おーい、東? 聞こえてるかぁ〜?」
目の前でぶんぶんと手を振ってみてもまるで反応を示さない。
横からつんつんと春姫がつついてきて耳打ちしてくる。
「八雲くん、菊理先輩、今『愛称を考えようモード』に入っちゃってますから当分帰ってきませんよ」
「『愛称を考えようモード』?」
「はい。先輩、会った人には基本的にあだ名をつけるんです」
「……教師にも?」
はい……と頷く春姫。
「しかも菊理先輩、自分にセンスがないの自覚してないんです……」
春姫≠セから春ちゃん=Bじゃあ俺は……。
「あっ! そうだ! やっくん!! やっくんでいこう!!」
どっかのスケバンみたいなあだ名をつけられた!
「やっくん先生やっくん先生♪」
「東……、先生だと思ってるなら変なあだ名つけるな……」
「いいじゃないですか。歳もそんなにボク達と変わらないんですから」
どうやら既に東の中ではやっくん先生≠ェ定着したらしい。ついでに、彼女の一人称はボク≠フようだ。
「クスクス……」
春姫が笑ってる。楽しそうに。東のおかげでさっきまでの暗い雰囲気が吹っ飛んだようだ。
……まぁ、結果オーライってことにしとくか。
「じゃあやっくん先生、お近づきの印に一緒にご飯食べましょーよ♪ 春ちゃんもいいよね?」
「あ、はい」
「分かったよ……。じゃあ俺が食券買ってくるから二人は席取っといてくれ。何がいい?」
「あ、ボクAランチね♪」
「じゃあ私はクラブハウスサンドを」
「了解。じゃ、ちょっくら行ってくる」
列の最後尾に並ぶ。幸い二人も、ちょっと離れたテーブルを確保することが出来たようだ。
五分程してようやく俺の番が回ってきた。Aランチとクラブハウスサンド、俺はカツ丼にした。食券をカウンターで交換して二人の待つ席へ。
東は終始笑っていた。つられて俺と春姫も笑う。ゆうべからの空気は、どこかへ消えてくれたみたいだ。
…………。
……てゆーか、東の分も奢る羽目になるのか?
*
午後の授業とクラスのホームルームを終える。特に残務もなかったので帰ることにした。
「あちぃ……」
冷房の効いた校内から外に出ると、途端に西日がじりじりと照りつけてくる。六月ということもあり、真夏に比べてかえって日が落ちるのが早い。せっかちなセミ達がそこかしこで合唱を奏でていた。
一度風間邸に戻る。私服に着替え鞄の中身を入れ替えると、再び家を出た。
目的地は隣町の総合病院――精神科だ。
「紹介状は読ませてもらったよ。その若さで、随分と立派な経歴じゃないか。海外でこれだけの実績を上げられる日本人は大人でもそうはいないよ」
「ありがとうございます」
「それもこれだけのハンディキャップを持っていながら、ね。周囲の偏見もあったろう。さぞや苦労したんじゃないかい?」
「まぁ……それなりに」
受付を済ませてから、まずは問診表を記入する。その後待合室で一時間半くらい待った後、俺の診察が回ってきた。
精神科というものは他の科に比べるとかなり患者が多いため、予約を取っていても時間通りに診てもらえるとは限らない。むしろ一時間や二時間待たされることの方がザラだ。特に昨今は心の病を抱えた人が増えているのだろう。かく言う俺も、そんな心を病んでいる人間の一人だった。
担当医は三十代前半の若い温厚そうな西井という男性だった。今時珍しい、おしゃれ要素を一切排除した黒縁眼鏡に爽やかな笑顔がよく似合っている。
「先天性の夢遊病か……、あまり例を見ないね。釈迦に説法かもしれないけど、普通夢遊病っていうのは精神的なストレスや就寝前の興奮状態が原因で発作を起こすものなんだよ」
「はい」
「いくつか質問をさせてもらうよ」
そう前置きをして質問が始まった。
幼少時、両親や兄弟からドメスティック・バイオレンスを受けたことはないか? 学校でいじめにあったことはないか? 殺人願望に駆られたことは? 自分を現実主義者だと思うか、それとも理想主義者だと思うか? 自分を楽観論者だと思うか、それとも悲観論者だと思うか?……などなど。
「うーん……、どれもピンとこないなぁ」
一通り質疑応答を終えて、西井医師が唸った。
「これといって精神的に問題があるとも思えないし、特に興奮状態にあるとも考えづらい」
「昔からそうでした。僕のは何度心理テストを受けても、どれだけ薬を飲んでも一向に変化がないんです」
「最近発作を起こしたことは?」
彼はそう尋ねて足を組み直した。
「…………」
俺は昨日のことを言うべきか言わざるべきか迷った。あんな非現実的なことを話せば間違いなく虚言症患者扱いされるだろうし、北原も公言するなと言っていた。かといって黙っているわけにもいかず、件の部分だけ隠して話す分には問題ないと判断した。
「その時の様子を詳しく聞かせてくれるかな」と西井氏。
薬が見つからなく、飲まずに二十二時頃布団に入ったこと。しかし零時頃には服を着替えて歩いて十五分もかかる学園にいたこと。その後はとりあえずそのまま帰ったということにしておいた。
「なるほど……。やっぱり薬がないと症状は出やすい?」
「そう思います」
「そうか……。うん、分かった。とりあえずソラナックスを二週間分出しておくよ。長いスパンで付き合っていくことになると思う。しばらくは通院してもらって信頼関係を築いていこう。一ヵ月くらいしたら、改めてロールシャッハテストもしてみるから、そのつもりで」
「分かりました。……では、失礼します」
処方箋と会計用紙を手渡される。「気をつけて」という声を背に退室した。
会計を済ませ病院を出て、携帯の電源を入れると早速。
――ピロリーン、You’ve got a mail.
「メール……?」
確認すると、春姫からだった。
『八雲くん、今どこにいますか? 私は今聖徒会から帰ってきたところです』
ゆうべ俺の病気については聞かれたし、今更隠してもしょうがないか。
『隣町の病院。あとは薬もらって帰るだけだ』、と。送信。
ピロリーン。すぐに返事が返ってくる。
『じゃあ今から迎えに行きます。そこで待ってて下さい』
『そんな必要ないって。あとは真っ直ぐ帰るだけなんだから』、と。
ピロリーン。またすぐに返信が。
『ダメです、すぐに行くから待ってて下さい』
……春姫、どうでもいいけどお前、メール打つの無茶苦茶早いな。それに、今日はいつになく頑固だ。
『分かったよ、正面入り口のところで待ってるから』
『はい、分かりました』
折りたたみ式の携帯電話をたたんで、近くの薬局へ向かう。すいていたので、薬はすぐに手に入った。
道を戻って、病院の正面入り口付近で待つ。
少しして――。
「八雲く〜ん」
遠くから小走りで春姫がやってきた。
「お前……マジで早いな」
薬を出してもらうのに少々時間がかかったものの、それを差し引いてもほとんど待っていない。
「えへへ、走りましたから」
そう言う春姫だが、ほとんど息も切らせていない。運動神経がいいと言っていたのは本当のようだ。
「……病院、どうでしたか?」
ほのかに暗い顔になって訊いてきた。
「別にどうも。可もなく不可もなくって感じだよ。……あんま心配すんなって、昔っからのことでもう慣れっこだから。薬ももらったから、ゆうべみたいなことはもうないよ」
「……八雲くんが、そう言うんでしたら」
頷きはしたものの、その表情はまだ曇ったままだ。
「ほら、帰ろうぜ? 腹減っちまった」
俺はちょっと乱暴に腕を掴んで歩き出した。
「あ……」
初夏の宵闇の中、彼女はほんのりと頬を染めて。
「はいっ」
嬉しそうに頷いた。
時計は十九時を指していた。
*
─――─19:37。
聖徒会室。
その室内で一人の少女がデスクに腰掛け、資料の束と向き合っていた。
聖徒会会長、西園寺阿須波である。
「お疲れ様です、会長」
かちゃりと小さく音を立ててグラスを置きつつそう言ったのは、眼鏡の奥のオッドアイが印象的な女生徒、北原鈿女だ。
「あら、副会長。お疲れ様」
「…………」
「…………」
「……ぷっ」
「うふふふ……」
少しの沈黙の後、二人はほとんど同じタイミングで、思わず耐え切れなくなったように相好を崩した。
「あはは……。阿須波? ちょっと根詰めすぎじゃない? ここのところ毎日でしょう?」
「ふふっ、そんなことないわよ鈿女。この程度なら、実家の道場でやっていた鍛錬の方がよっぽど厳しかったわ」
「それもそうよね。あたしは一回しかやらせてもらったことないけど、それだけで一週間は筋肉痛がとれなかったもの」
歳相応の笑顔で談笑する二人。クラスメイトでこそないが、彼女らの間には聖徒会の役員として繋がり以上に、幼馴染であり親友としての友情があった。
「それに……」
しかし鈿女が淹れた紅茶を一口含んだ阿須波は厳しい顔つきになる。
「菊理の報告も最近嫌な感じだし……、さっき貴女が春姫にしたタロットも結果が芳しくなかったのでしょう?」
「逆位置のThe Tower=c…、意味は緊迫・突然のアクシデント=c…」
ちらりと部屋の隅に視線を向ける鈿女。そこには先日、八雲が所持していた剣が布に包まれた状態で放置されていた。
「無自覚のアダプター……、飯綱じゃないけど『面倒』ね」
阿須波が思わずため息を漏らす。そこにノックの音。
「頑張ってる? 西園寺さん、北原さん」
入ってきたのは副学園長、風間春日だった。
「あ、お疲れ様です」
「お疲れ様です、副学園長。まだ残られていたのですか?」
「えぇ、なんだか悪い予感がしてね……」
「神倉先生のことですか?」
「そうね、それもあるけど――」
その時だった。
『ΑΛΕΡΤ!』
「ッ!?」
突如無機質な機械音声が室内に響き渡った。
「オモイカネ!!」
ヴン……。
春日がそう叫ぶと、彼女の左薬指にはめられた指環が光り、そこから映画のスクリーンのように空中に液晶のビジョンが浮かび上がった。
「九つの世界≠ナすか?」
阿須波が春日に尋ねる。緊迫感に包まれる室内。
「そのよう……。でも幹部ではないわね、エインヘルヤル≠セわ。中庭に一、二……六体」
「彦根、児屋、聞こえた? お願いして平気?」
鈿女が誰もいない空間に話しかける。するとどこからともなく返事が返ってきた。
『へーい』
『お任せですぅ』
彦根と児屋の声だ。
「なるべく備品を壊さないようにしてね。東さんが泣くから」
『善処しまーす』
春日に応じる彦根の声を最後に、再び聖徒会室には三人の声しか聞こえなくなった。
「これだけですか? 連中にしては呆気ないものですね……」
と阿須波。だが――。
「いえ、まだ……! 駅前にくる……! 数は――九体!?」
*
――─19:45。
「さーて、片しますか。児屋、お前は退がってな」
「一人で大丈夫ですかぁ? 彦根くん」
彦根と児屋は六つの人影に囲まれていた。
鎧甲冑に身を包んだ人影は、まさにこれから隣国との戦争に臨もうとでも言うかのように、それぞれが異なる得物≠持っている。剣、槍、戦斧、弓といった具合に。彼ら――否、それらは身体の輪郭というものがぼやけており、まるで生気を感じない。さながら幽鬼のそれだ。
「エインヘルヤルごときに遅れを取るとでも? それに、お前のアダプト、こんな接戦向きじゃないっしょ」
「じゃあ、お願いしますね」
てとてととした足取りで離れていく児屋。その背後に――。
「ウオォォォォ!!」
狂戦士じみた雄叫びをあげて、巨大な斧を持ったエインヘルヤルが襲い掛かる!
しかし児屋は躱すどころかまるで怯えた様子すら見せない。そして、その凶刃が彼女を捉えるよりも早く彦根がその間に割って入り。
「――巻き起これ」
次の瞬間には。
「――覇王鎌=I!」
――ザン!
肉を切り裂く不快な音が響き、彼の手には身の丈程もある巨大な鎌が握られ、亡霊兵士の斧が、持っていた腕ごと宙を舞った。
言わずもがな、彦根が斬り落としたのだ。
片腕を失ったにもかかわらず出血はない。苦しむ様子もなく、彦根の上段から振り下ろす第二撃により真っ二つに割れた。
光の粒子になって消滅し天に昇っていく。それに一目もくれず残党に鋒を向ける彦根。
「あと五体……ちゃっちゃと行くすよ」
かったるそうにそう呟くと近くにいた剣士へと走り抜け、そのまま横薙ぎの一撃!
剣士のエインヘルヤルは咄嗟に剣を垂直に構えそれを防ごうとするが。
――無意味。
そんなものはまるで薄紙の守りだ。彦根の持つ大鎌は防御に回した剣を容易く両断し、その先にある鎧すら音もなく一閃の下に切り捨てたのだ。
腕力でもない、技量でもない。あれは単純に刃自体が持つ純粋な切れ味。
鋼鉄をも裂帛の如く断絶する。それが火野彦根の所有するアダプト・覇王鎌クロノス≠フ真髄だった。
残った四体のうち、弓を持った二体のエインヘルヤルが矢を放つ。それを。
「いや、無駄っすから」
クロノスを横にして、器用に刃の部分で弾いてみせた。
避けるのも容易だったはずだ。しかし彼は後ろに児屋が控えていることをしっかり理解していた。避ければ彼女に被害が及ぶ危険性がある、故の防御。そんな細かなところにまで気を遣う余裕が彦根にはあった。
残り四体。槍兵が一体、弓兵二体、そして刀身100cmを超える大剣を携えた重戦士が一体。
彦根が次に狙ったのは突っ込んできた槍兵だ。走りがけに一突きしてきた槍をクロノスで斬り落として、第二波で首を刈った。
大鎌で首を刈り取る様はまさに寓話に登場する死神のそれだ。
だが、その一瞬の隙を狙って、重戦士が後方に待機していた児屋に襲い掛かる!
「児屋!」
彦根の妨害は間に合わない。その巨大な剣が児屋を捉えようとしたまさにその瞬間――。
「――鋼鉄の神亀・サイズS=v
虚空から現れた何か≠ェ、襲い来たエインヘルヤルの鎧を噛み砕いた。
バキ、バキバキ……。
鉄が砕け散る音が辺りを支配する。纏っていた甲冑など、それ≠フ凶悪な顎の前には粘土細工以下だ。
時空の歪曲を経て現れたのは。
背に無数の棘を蓄えた、体長3m程もある巨大な鋼鉄の亀だった。
草を食むように鉄製の鎧を咀嚼する其の名はランドグレイヴ=B
児屋は、幼くしてレアスキル・召喚系アダプトを有するアダプターだったのだ。
かつて鎧だったものの残骸を食い散らかし、エインヘルヤルを飲み干すランドグレイヴ。無言で敵を威圧しつつ、かばうようにして児屋の前に四本足で立つ。
「いい子」ランドグレイヴの頭を撫でつつ児屋が言った。
その一連の出来事を見届けることなく、彦根は残る二体の弓兵に肉薄する。遠距離攻撃に特化したエインヘルヤルは、疾風の如く懐に入り込んだ彦根の前になす術もなく斃れた。
「お掃除終了っす」
「おしまいですぅ。ランドグレイヴ、お疲れ様。ありがとうね」
労を労われたランドグレイヴは最後に「グルゥ」と一鳴きして再び虚空の彼方へと消えていった。クロノスもまた、一度光を放ったと思うと、どこへともなく消え去っていた。
『ご苦労様。二人は撤収して頂戴』
阿須波の声がした。
「駅前のはどうするんすか?」
『あたしが行くわ。春姫がいるから必要ないとは思うんだけれど』
『ともあれ、貴方達はもういいわ。上がって』
今度は鈿女の声。次いで春日。
「りょーかいっす」
「分かりましたぁ」
そう言って立ち去る彦根と児屋の二人。
中庭は、すっかり元の静寂を取り戻していた。
*
――─19:52。
駅前に戻ってきた俺達を出迎えたのは、一種異様な雰囲気だった。
「春姫……、なんか変じゃないか?」
そう、変なのだ。何が変かは上手に表現出来ないが、何者かに観察されているような、まとわりつくような感覚がする。
「…………」
「春姫?」
春姫は答えない。代わりに。
『春姫? 聞こえる?』
どこからともなく、声が聞こえてきた。聞き覚えのある声。これは……西園寺か?
「はい、聞こえてます会長。……エインヘルヤルですね?」
『えぇ。数は九。念のため鈿女が今そっちに向かってるわ』
不思議な感覚。鼓膜を介さずに、直接脳内に声が響くような。どうやら春姫と会話をしているようだ。しかし夕時の駅前、賑わう多くの人達に聞こえている様子はない。
『NCSの発動を許可します。周囲の安全を第一に』
「春日さん?」
今のは間違えようもない、春日さんの声だ。
『八雲さん!? 八雲さんがそこにいるの?』
「はい……、います」
弱々しく頷く春姫。あの時と同じ、悲しげに俯いて。
『そう……。春姫、護ってあげてね』
「……はいっ」
再び頷く。今度は力強く。
『来ます! 春姫!』
「はい! ……NCS、radius200m――invoke!!」
invoke――『発動』のスペルと共に、波動が春姫を中心に広がる。
その波動は次第にマゼンタの大きな津波と化し、周囲200m四方を覆い尽くす!
マゼンタカラーの津波に飲み込まれた人達の輪郭が次第にぼやけていく。まるでそこにいるのに、いないかのように。
「ってうわっ」
一人の中年男性が俺の目の前にまで歩み寄ってきていた。だが輪郭がぼやけているので本当にそこにいるのかどうかは怪しい。あっちも、まるで俺のことなど見えていないかのように近寄ってくる。そして俺と正面衝突しそうになった瞬間――。
「……え?」
男は俺の身体をすり抜けて何事もなかったかのように去っていった。
何が……どうなって……?
更に。
空から光の線が降ってくる。一本、また一本と。合計……九本。その光線はやがて人の姿を形作り――。
その人影は、騎士甲冑に身を包み剣や斧を装備した尖兵へと変わっていった。
こいつらは……ゆうべ俺を襲った奴と同じ!?
「春姫、こいつらは……」
何者だ? と問おうとした俺を、春姫は黙って手で制した。
「八雲くんはさがっていて下さい。こいつらは私が……倒します」
「たお……す、って! 馬鹿、危ないだろ! 逃げないと!!」
俺は春姫の手を掴んで走り出そうとした。しかし。
「春姫?」
俺の手を――かなり乱暴に掴んだつもりだったが――振り払って堂々と奴らと対峙する。
「大丈夫です。こんな奴らより私の方が強いですから」
いつものおどおどした春姫からはおよそ想像もつかない。絶対の自信を持って彼女はそう答えた。
「八雲くんを傷つける奴は許さない……! 私達を護って――」
春姫の足元が輝く。
幾重にも纏った風の封印を破って現れたのは。
「風奏でる翼靴=I!」
空に吹く風≠ニいう名を冠した、踵の部分から四枚の翼を生やした聖なるロングブーツだった。
「お前、それは……?」
「すぐに、終わらせます――」
そう言うや否や、春姫の姿がブレる。
(なっ、消え――)
た、と思った時には、既に遠く離れている鎧剣士に強烈な蹴りを浴びせているのが視認できた。
(疾い――!)
そして更に次の一瞬で、別の奴に後ろ回し蹴りを繰り出していた。
春姫の蹴撃を受けた二体の兵士が消滅していく。残り七体……!
次々と鎧の隙間を縫って強烈な連撃を放つ春姫。人知を超えたスピードに、俺は目で追うのがやっとだ。
目で追う、と言っても、時折その姿を視界の隅に捉えることが出来る、という意味であり、右の隅に確認できたと思えば一秒後には左隅で交錯している。
それもそのはず、春姫の足はまともに地についていないのだ。まるで空中に見えない足場でもあるかのように、靴から生えた翼を自在にはためかせ宙を舞っていた。
初め九体いた兵隊は、わずか一分後にはその半数が蹴り飛ばされ地面を転がっていた。
圧倒的だった。
(これがあの大人しい春姫、なのか……?)
彼女の脚は周りを囲う鎧兵士達を次々と減らしていく。
「音速の舞踏技――」
そして一際高く飛び上がり空中で一度静止したかと思うと――。
「――影踏!!」
そこから音速近いスピードを以って急降下し、足から着地、それによって生じた衝撃波で兵士達を吹き飛ばした!
「うわぁっ!」
こっちまで爆風による風圧と塵埃が届く。咄嗟に目を閉じる。そしてすぐ近くに、どしゃり、という鋼がコンクリートの地面に落ちる音。
目を開けると。
すぐそこで、一振りの剣を片手に持った剣士が覚束ない足取りで立ち上がるのが見えた。
「しまった! 仕留め損ねた!?」
泥酔した酔っ払いのようにふらふらと立ち上がる。満身創痍の様相だが、剣をあと一振りするだけの力は残っているはずだ。そして、その一振りがあれば――。
圧勝していた春姫の唯一の誤算。
俺を護ろうと奮闘していたあまり、逆にそれが周りに目を遣る余裕を削いでいたということ。
「八雲くん、逃げ――」
逃げて、という声も間に合わない。
あと一振りあれば。
――ザン!
正真正銘最期の力を、身体髪膚を用いて、俺の右肩から左腰にかけて大きく袈裟斬りにすることが可能だった。
全身の血液が我先にと言わんばかりに外に溢れ出す。間違いなく致命傷だ。
「いやぁぁ!! 八雲くぅん!!!」
春姫の悲痛な叫びが耳に届く。嗅覚神経が先にイカれたのか、馥郁たる匂いが鼻を突いた。
俺は……また死ぬのか?
昨日みたいに?
あんなに理不尽に?
……そんなのふざけてる。
…………二回も殺されるなんてふざけてる。
………………この俺が、神倉八雲が死ぬなんて、そんなのふざけてる。
俺は、こんなところ死ぬなんて――。
(わたしを呼べ、ヤクモ!!)
――20:00。
「……来い――」
天啓が降りる。
そう。
「――アヴァロン!!!」
鷲は舞い降りたのだ。
────unlimited The eagle has landed・了
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